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今後のイベント構想紹介シリーズ〜「人文読書会(仮)編」

こんにちは。運営の花井です。
今日から福岡哲学カフェで今後新しく始めたいなあと思ってるイベント案について書いていきます。目的は告知と反響調査と運営協力してくれる人の募集です。以前から僕の中で普段やってる哲学カフェとは別にやりたいことがいくつかあったんですが、自分の都合もあってなかなか行動に移せませんでした。が、最近になって少し生活が落ち着いてきたので積極的に動いていきたいと思い立ったところです。

今日からいくつかのイベント案をブログで書いていきますが、読んでみて「それいいね!」とか「面白そう!」「運営に携わりたい」と思ったら是非ブログや各種SNSにコメントまたはホームページからメッセージください。実現に向けての強い後押しになります。

まず一つ目、今日紹介するのがタイトルにある通り

「人文読書会(仮)」です。 実現させたい度★★★★☆

・イベント概要
いわゆる読書会です。決められた課題本を読んで、当日その本を読んだ感想や気付いたことなどを話し合うイベントです。特徴としては広く人文系に関連する図書を扱う読書会にしようかなと考えています。

・開催理由
開催理由は現在福岡県内で広く人文系の図書を読み交わす趣旨の読書会がほとんどないように思うからです。哲学カフェ含めこれからあげる他のイベント案にも通じて言えますが、基本的に「福岡にないものを作る」ということが動機を占める割合は大きいです。既に巷に溢れているイベントをわざわざ自分が旗あげして始める必要をあまり感じませんし参加する側の人もそうかなと。シンプルに自分が欲しいと思ってるけど、福岡でやってる人がいない場合に、じゃあ作っちゃおうという感じです。

福岡県内には様々な読書会がありますが、その多くは参加者がそれぞれ持ち寄った好きな本を紹介し交流する紹介型の読書会で、残りの課題図書型の読書会でも多く扱われているものは小説や文学作品など文学に限られたものがほとんどです。広い意味で人文系の読書会といえば「天神ぷち読書会」さんと文フリ福岡有志の方が開催されている「現代思想読書会」くらいでしょうか。もちろんうちうちで書評会などを開いている方々も県内にはたくさんいらっしゃるでしょうが、少なくともネットやSNSで検索して簡単に見つかり誰でも参加ができるようなオープンなものはほとんど開かれていないというのが現状だと思います。

最近でいえば東浩紀さんの「ゲンロン0」千葉雅也さんの「勉強の哲学」など巷を賑わわせている思想書が多くありますし、全国では既にそれら人気図書をテーマにした読書会がたくさん開催されています。そう考えると、きっと福岡でもそういう本について語り合う場を求めている人がたくさんいるはずなのに、それが出来る場が全くないというのは寂しいことだなと感じました。

・具体的な指針
基本的にはまだまだ未定です。これから読書会を協力して一緒に始めてくれる方を募り、メンバーで話し合いながら一から作り上げていくつもりです。

その上で現時点で自分が思っているのは、
課題図書は人文系から広く選書したいこと。上で「ゲンロン0」や「勉強の哲学」を挙げましたが、別に現代思想にこだわるつもりはないですし、歴史や心理学とか、詩集なんかでもいいと思います。また専門的なものじゃなく一応誰でも読める程度のものがいいかなと考えています。自虐抜きに僕自身本当に学がないので専門的な本はついていけないと思いますし。また趣旨については哲学カフェと同じように読みの正しさを競う討論の場ではなく、あくまでそれぞれの読み方を交わすことで読書体験やそこから得られる思索を豊かにすることで、ゆるやかな安心できる会にしたいと考えています。頻度としては毎月か隔月あたりで出来ればと考えています。

・今後の進展
読書会についてはある程度じっくり準備をしてから始めたいので、開催まで時間がかかると思います。今は読書会設立に向け、告知をしながら協力してくれる人を募っています。そして時期がくれば「読書会についての座談会」というようなイベントを開きそこで福岡県内の読書会文化や参加者が望む理想の読書会を語り合い、情報収集、参考にしたいと考えています。その上で運営メンバーと今後立ち上げる読書会の指針について具体的に話し合いを始めていく予定です。ここまでが夏くらいまで目処ですかね?

以上が新イベント読書会についての構想紹介でした!
次回は「福岡みんなの自主ゼミ(仮)」について書きたいと思います。
お楽しみに。

4月「大人になるとは?」開催レポート

■第32回福岡哲学カフェ開催しました

こんにちは。運営のハナイです。
4月16日(日)第33回目の哲学カフェ開催しました。
テーマは「大人になるとは?」
当日の参加者は合計21名で、そのうち男性10名、女性11名、初参加9名でした。
皆さんありがとうございました。

 

■今月のホワイトボード
福岡哲学カフェでは対話を始める前と終わった後で、その時点でのテーマに対する考えを記入してもらってます。これは対話の前後で自分の考えがどう変化したかを確認、実感しやすくするためのプログラムとして設けてます。

画像は対話前の考え。

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これを元に対話をし、最後にもう一度別の紙に同じように考えを書いてもらいます。

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こういう風に変化しました

■アンケートへの返信
哲学カフェに参加いただいた方に匿名でのアンケート回答をお願いしています。
頂いたアンケートから今回の感想、批判、要望について可能な範囲でお応えしたいと思います。

 

(アンケ1)「参加して楽しめた、特に良かった、という点があればご自由にお書きください」

(回答1)普段もやもやと言語化できない思いを言葉にしてもらったような場面もあり参加してよかった。

(回答2)自分の紹介(今の肩書きや年齢など)が不要であることで、みんながフラットな状態話が出来ることが良かったです。

(回答3)他人の考え方が聞けたこと。

(回答4)参加するルールがあり、今後このルールは、日常的に生かしたいと思いました。
対話を聴いて、自分の考え方が明らかになり少し気持ちがスッキリした。
今日のお題 、大人になるとは?はじめは、曖昧でしたが、今は、線引き無しで、
自分自身が、こういう人間になりたいと思う事が、大事と思った。

(回答5)発言しやすいような雰囲気でよかったです!ありがとうございました 

(回答6)自己紹介であえて詳しいことを話さなかったことで、先入観などなく意見を聞いたり言い合うことができたと思います。そこがよかったです。


(アンケ2)「参加して楽しめなかった、改善してほしい、という点があればご自由にお書きください」

 

(回答1)思いを言葉にするのに時間がかかり、思うように発言できなかったが初参加だしこんなものかなとも思った。きちんと進行・運営されているんだなと思いました。ありがとうございました。

(回答2)トークが盛り上がるともう少し時間があるといいなと思いました。けど、あまりに長いのも疲れそうなので丁度いいのかもしれません。

(回答3)ありません。できればこのまままで。


今回はここまで。次回の哲学カフェは5月7日(日)テーマは「今だからこそ教育とは何か考える」です。

それでは。

 

運営の感想「テンポ、文体、遊び、ペルソナ」

先日開催した哲学カフェについていくつか思うことがあったので自分のための記録も兼ねて、いつもの開催レポートとは別でブログに投稿します。

 

■テンポ

まず反省点から言うと、今回参加者数が多く対話のピーク時にテンポが早くなり過ぎていたように思います。基本的に参加者には挙手をしてから発言するというルールを守ってもらっているので、テレビの討論番組のようにみんなが一斉にワーワー話し始めるというようなことは起こっていませんが、やはりテンポの早さのために発言するタイミングを掴みづらい時間がいくらかあったように思います。そういう時は一度、対話の段落を変えるように、全体に黙考を促すような問いかけをして速度を調整してもよかったなと思います。コミュニケーションを重視するイベントでは量的な盛り上がりが良しとされるかもしれませんが僕は哲学対話においては、いかにゆっくりと語り、ゆっくりと考えることができるかが大事なことだと思っています。

 

文体

良かった点としては、今月も一層多様な対話が実現できていたようで良かったです。それは多様な考え方が出たという意味もありますが、それよりも多様な文体が混在できていたことの意味を特筆したいと思います。文体とは人それぞれの考え方、表現、語りのスタイルのようなものですね。福岡哲学カフェでは意見自体はもちろん、その語りや考え方においても「こういう風にすべき」というような正解や合理性を出来るだけ作らないようにしています。なので、参加者それぞれの個性的な語りにより多様で混沌とした対話が現れていたように思います。それぞれの人がそれぞれのマイペースさによってその都度、対話の文脈や、場の空気が破壊され、再構成されていることが目に見えて僕は心地よかったです。同調圧力や一元的な価値規範がない対話の渦中で、人は一人になることができます。そしてそれが哲学カフェや哲学における一つの癒しであるのかなと思っています。

 

■遊び
4月の哲学カフェの中で面白かったのは、対話の中で特定の概念を鍵にして哲学的探究の道が開かれていたことが見えたことでした。今月のテーマは「大人になるとは?」で僕が鍵になったと思ったのは「遊び」と「ペルソナ」でした。
最初どちらかと言えば「遊び」という概念に対して違和感の方が多くが発せられました。この違和感という影響の与え方は重要な意味を持つように思います。つまり、ある人の「遊び」という概念をそれぞれ自身の世界観に即して解釈しようとする時にどうにも困惑させられているという事態であったように見えたのです。遊びという言葉に困惑させられ、いくつかの違和感が言葉を持って表現されましたが、その解釈の差異を足がかりに応答が重ねられることで遊びという概念が立体感を持ち、深みを持ち捉え直されていく。それは困惑させなられながらも、その遊びという概念を読解しようという意思の元に起きた運動なのかなと思います。紆余曲折を経て、またちがう話題に飛びながらも、遊びという言葉自体が吟味され、最初の違和感という状態を乗り越え、何人かの思索に意味を与えて解釈され直されているように見えました。そこにとてもナチュラルに哲学的な探求の道が現れていたように見えました。

 

■ペルソナ

「ペルソナ」という言葉は違和感ではなく、むしろスッキリ納得!という風に多くの人の思考を促進させました。「大人」という概念を「こども→大人」という直線的な成長として捉えることで起こる思考の障害を、ペルソナという仮面、人間に課せられた役割として捉え直すことで、その問題をクリアにしました。一つの概念によって、それまでモヤモヤ複雑に整理できなかった考えがスッキリ理解できるようになることも一つの哲学的体験として僕の心に残った場面でした。

第32回「働くとは?」開催レポート

■第32回福岡哲学カフェ開催しました

こんにちは。運営のハナイです。
3月19日(日)第32回目の哲学カフェ開催しました。
テーマは「働くとは?」
当日の参加者は合計18名で、そのうち男性12名、女性6名、初参加7名でした。

 

また今月は全国的に哲学対話の活動をされているカフェフィロという団体の代表の方が参加してくださり、会後色々お話しすることができて良かったです。

カフェ性の話、哲学の持つ安全性の話、個人的な話と普遍性、場のローカル性の可能性などなど多くの刺激をいただきました。本当は今度から全国の哲学カフェ関係の方とお会いした時に、ゆっくり哲学カフェについて対談して、それを動画に収めて公開しようと考えていたんですが、今回は自分の準備不足で実現できませんでした。

 

■今月のホワイトボード
福岡哲学カフェでは対話を始める前と終わった後で、その時点でのテーマに対する考えを記入してもらってます。これは対話の前後で自分の考えがどう変化したかを確認、実感しやすくするためのプログラムとして設けてます。

画像は対話前の考え。
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これを元に対話をし、最後にもう一度別の紙に同じように考えを書いてもらいます。
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こういう風に変化しました

■アンケートへの返信
哲学カフェに参加いただいた方に匿名でのアンケート回答をお願いしています。
頂いたアンケートから今回の感想、批判、要望について可能な範囲でお応えしたいと思います。

 

(アンケ1)「参加して楽しめた、特に良かった、という点があればご自由にお書きください」

(回答1)発言せずとも色々〈聞ける〉ということが楽しかったです。 良かったのかどうかはわかりませんが、率先して自らが聞きたいことを聞ける人がいることにホッとしたような気もします。でなければ場が進まないとも思うので、当たり前ですが、意見を〈聞きたい〉人がいたり、意見を〈聞くだけ〉の人もいる、それが許される、ことが大切で守られるていると感じれたので、良い面だと思います。

(回答2)自分では思い付かない意見が聞けた事が面白かったです。そして発参加ではないので、座談会で個人個人とお話が出来て良かったです。

(回答3)人の話を聞くことができたことと、こういう機会がなければ集中して考えないだろうことについて、考えることができた。

(回答4)自分の考えを多く話せた点

(回答5)働く意味を考えさせられた。働くのは嫌という人がたくさんいてビックリしました。自分は家にいられない人間だから。人間関係は問題でも、働くこと自体は自分は好きだから。職場の人間関係と仕事自体はわけて考えた方が良い気がしました。


(アンケ2)「参加して楽しめなかった、改善してほしい、という点があればご自由にお書きください」

(回答1)人数に対しての時間が短いのか、 テーマに対しての時間が短いのか、

(運営)本質的なことについてじっくり話すには時間は足りないかもしれないですね。人数を調整すべきかはいつもとても悩んでいます。参考にしますね。ありがとうございます。

 

(回答2) あまり発言が得意でない方の考え方が充分にお聞きできなかった点(発言者が限られていた)

(回答3)うーん、初参加の人は緊張感あって話してくれないと思うからなにか対処方があると良いかな?

(運営)貴重な意見をありがとうございます。そうですね。確かに哲学カフェに参加してほとんど発言されない方もいますね。これについてはまずは参加された方が話せなかったのかどうか?そうだとしたらなぜ話せなかったのか?をきちんと理解するためにアンケートの項目を改善変更してより具体的に哲学カフェの状態を把握できるように努めていきたいと思います。というのも発言が少ない方が発言"しない"のか発言"できない"のかはその場ではなかなか判断が難しいです。発言したくてもできない、発言したいと思えない原因があるということだったらその問題は解決すべきですが、発言したいわけじゃなく聞くことを楽しみに来ているという場合はそれで問題はないと僕は思っています。無理に話さなくちゃいけない、ということはないし話したほうがいいというような雰囲気もあまり持ち込みたくないと思っています。全体的に話させるというのではなく個別の話しづらさを解消できたらいいなと思っています。

 

今回はここまで。次回の哲学カフェは4月16日(日)テーマは「大人になるとは?」です。

それでは。

 

 

 

 

 

 

5月哲学カフェ 「今だからこそ教育とは何か考えてみよう」

こんにちは。運営のハナイです。

今日は5月開催の第34回哲学カフェのお知らせをしようと思います。

 まず最初に哲学カフェの日程についてですが、5月は第一日曜日の7日開催です。いつもは第三日曜日に固定して開催しているのでそう覚えて頂いている方はご注意ください。

 そして今回のテーマですが「今だからこそ教育とは何か考えてみる」で開催します。

今年に入り、立て続けに教育や子どもに関わる社会的に重大な出来事が数多く起こり、また取り沙汰されています。

 文科省役人の大学教員への天下り、塚本幼稚園の思想教育、ワンズマザー保育園の虐待、道徳教科書上のパン屋修正、LGBT教育は保護者の理解を得られない、新しく始まる道徳の成績評価などなど(各詳細は検索してみてください)。

 

これらの是非については僕にはまだわかりませんし、労働や経済、政治など様々な視点から考えられる事柄でもありますが、それでも僕は根底にあるのは子どもを取り巻く教育とは何か?教育とはどうあるべきか?という問いにつながっていると思っています。
今だからこそ教育について改めて考え直してみる意味があるんじゃないでしょうか。


ただ、なにも哲学カフェでこういった社会問題や政治を絡めて難しい専門的な教育論を交わそうということでもありません。

 

ここはあくまで哲学カフェです。

 

今だからこそ、ニュースや時の政治とはあえて少し距離を置いて、日常の言葉で、自分なりに考え、そもそも教育ってなんだろう?と自分なりの問題として問い直してみればいいんじゃないかと思ってます。そこで得た考えが正しいかどうか、すぐに役に立つかどうかにさしたる意味はないのかなと僕は思います。

でも、それでも、そこで自分なりに教育ってなんだろうと考えこんでみることで、考える前とは違った景色で社会の教育にまつわる出来事がよりいきいきと見えてくるんじゃないかと。

 

人文学は何の役に立つのか?といわれて久しいですが、
僕は時代の政治や経済、生産性、合理性などとは別の仕方で世界を捉え直しよく生きることに哲学のひとつの意義がひそんでいるんじゃないかなと感じています。

 

5月7日、2日前は「こどもの日」ですね。哲学カフェで様々な人と一緒に考えることを通してあなたの世界の教育を捉え直してみませんか?

 日程的に参加される方が集まりにくくなりそうなので良かったらシェアしていただけたら嬉しいです!

それでは。

 

「哲学カフェってなに?」作りました

こんばんは。運営のハナイです。


今日はホームページに新しく「哲学カフェってなに?」のページを新設したのでそのお知らせです。
哲学カフェと名前だけ聞いてもそこからイメージするところは様々で、参加したことがない人にとっては「何をするんだろう?」「恐いところじゃないのかな?」と不安を感じる人もいるかもしれません。

 

「哲学カフェってなに?」のページではそういった不安を解消するために福岡哲学カフェが大切にしていることや当日の流れ、グラウンドルールなど詳細に記し透明性を設けることで初参加の方も安心して参加できるようにしました。

 

 

 

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かなり昔からこういう説明のページは必要だなと思いながら哲学カフェを始めて3年たち今更作成しました。自分で言うのもなんですが中々見やすい良いページに出来上がったと思います。せっかく作ったので良かったら覗いてみてください!

 ↓リンク

哲学カフェってなに? - fukuoka-cafephillo ページ!

 

出会い直しとしての言語活動 フーコーと哲学カフェ


こんにちは!運営のハナイです!

 

    先日、ある参加者の方から感想のメールをいただきました。わざわざ丁寧に感想を送って頂けただけでも大変ありがたいことですが、そのメールを読み、僕が抱いている哲学カフェの像が参加された方にもきちんと実感として共有できているんだということがわかってすごく励まされました。

    今回その方に、いただいたメールをブログで公開する許可を得ました。いくつかの論点を持った議論の余地の広い文章ですが、今日はその中から哲学カフェという場で行われている言語活動とはどのようなものであるか、という問題に絞ってミシェル・フーコーの言語活動論と照らしながら考えていきたいと思います。

    先に断っておくと、ここでいう哲学カフェとはさしあたっては「福岡哲学カフェ エクフィロ」のことを指します。というのも哲学カフェは1992年パリで始まったものからして自然発生的な活動であり、誰かが確固たる理論のもとに作り上げたものではありません。全国各地でも様々な哲学カフェが開催されていますがその方法や理念も多様で、ひとくくりにこれが哲学カフェですとかこれが哲学カフェの正解です、と言い切ることはできません。更に言うと「こうでなくてはいけない」というような定まった言説から自由であることこそ哲学カフェの重要な特徴の一つであると僕は思っています。

それでは以下よりいただいたメールの文章を引用します

 

福岡哲学カフェさま

先日はありがとうございました。感想をこちらのアドレスに送らさせていただきます。

わたしは、こうした不特定多数のひとが寄り集まり、なにごとかを話し合うというようなワーク・ショップに、これまで数度参加したことはありましたが、当会のそれは、以前参加したものとは質的にちがうものを覚えました。そのちがいは主に積極的な、快い驚きを含むちがいです。その感想をすこし述べさせていただきます。

先に率直に言うならば、わたしはそうしたワーク・ショップ、ならびに臨床哲学といった背景を含め、どこか違和感がありました。後者についての違和感はだいたい以下のようなものです。
すでにこの近代的な社会のうちで、伝統的なものとの結びつきを欠き、階級といった属性からも自由な「大衆」であるわたしたちが、自らの生活を省みて、どのような特定の知との結びつきもなく何かを問いことが無前提で出来るのだという、とするような言説は、むしろ学問の形式的な手続きや、その手続きによって伝承されてきた、思考の歴史を損なってしまうのではないか、という危惧が、おぼろげながらにわたしにはありました。あるいは、それらすべてをチャラにしてしまってもいいのだ、とアナウンスすることで、結果的にそれはあまりにも近代的なセルフ・マネジメントを助長する結果になりはしまいか、との危惧がありました。
(これはむずかしいはなしで、その反対が真であるわけではなく、もちろん専門的な教育を受けられるような時間や機会や資本に恵まれたひとだけが、そうした語りを許されるというのは消極的な帰結にしてはかなり極端です、また、このわたしの認識は前提として不正確なものだと思われます)
 
前者への判断は、それよりももっと個人的なものですが、後者の判断とも結びついています。
わたしの今までに参加してきたワークショップでは、その場での語りが、そのまま「承認による密な結びつき」と一緒になってしまっているような感覚を覚えることがありました。そうした承認を得ること、それ自体が目的となってしまうようなことに、わたしは恐れを感じていたので、一時のあいだそうした場所には参加してきませんでした。

そうしたなかで、今回の哲学カフェに参加させていただいたのですが、何よりも面白く感じたのは、「途中から誰が話しているのかがよく分からず、宙に言葉があちらこちらへと漂っている」ような印象を受けたことです。それは、あたかもたくさんのひとが、それぞれにひとりごとを言い、そうして発された言葉の端が、また誰かの言葉に影響を与えるようなもの、いわば「わたし(たち)が言葉を話す」のではなく「言葉がわたし(たち)を媒介として行き交っている」というようなものです。
また、主題に対して肯定的に一致せず、なにか曖昧な言葉の端にすこしのあいだだけ身を浸し、結果的にそれが各人の生を触発する、当会はそんな場であるようにも思われ、そこに快い驚きがありました。
そして、あのような場それ自体が、「価値観の異なるもの同士の共生」、つまり共同性をいかにして可能かについての、一つの形になっているように思われました。わたし自身の関心に引き寄せるとダイアローグ(多声的な語らい)の持つ脱主体化作用が、各々に対していかなる働きを持つのか、またはその倫理的な価値は、そのほかの言語活動に比べて、どこに存じているのか、について考えるための最良の経験を得られたような気がします。

 貴重な体験をありがとうございました。これからは忙しくなるやもしれないので、参加できるかどうかは分かりませんが、また参加した際は、よろしくおねがい申し上げます。


以上です。改めてありがとうございました。

 

今回特筆したいのは

「途中から誰が話しているのかがよく分からず、宙に言葉があちらこちらへと漂っている」

「わたし(たち)が言葉を話す」のではなく「言葉がわたし(たち)を媒介として行き交っている」

 という部分です。僕自身同じ感覚になった経験が幾度となくありますし、大分県で開催されているBundoku哲学カフェ代表の志水氏も以前、自身の哲学カフェでの経験を振り返り

「その人の背景みたいなものが後ろに退いて、言葉だけが浮き上がっていくような感覚を対話中に感じました。誰が言ったかというのは後退し、思索だけが紡がれていくみたいな。」

 と語っていました。

 

話した言葉が語り手から離れていくということ、言葉が浮かび上がり行き交っていくとはどういうことなのでしょう?そしてなぜ哲学カフェでの対話の中でそういった経験をすることができるのでしょう。

 

この問いに答えるためにフランスの哲学者ミシェル・フーコーが同じくフランスの思想家モーリス・ブランショについて論じた初期の評論「外の思考」において説明した「言語の存在(etre du langage)」という概念をもとに考えていこうと思います。

 

フーコーは外の思考においてこのように説明しています。

「言語は、一つ一つの単語においては、それらの単語の意味に染み付いた意味内容に方向づけられている。しかし、言語の存在そのものにおいては、また言語がその存在に密着している限りにおいては、言語は、誰にも方向づけられていないという意味で、純粋な期待の内部でのみ展開していく」

    私たちは言葉を用いるとき、自分の意思や意図によって言葉を選んでいますが、私たちが「私はこれこれと思う」と言った瞬間にその言葉の中の「私」は語り手としての生身の私から離れ、意味世界に捉われた、誰かが自由に解釈し勝手に利用するものに変わってしまう。つまり私が話した言葉は話された瞬間に私から離脱し、私の意思や意図といった語り手の支配から逃れ「純粋な期待」によって展開されていく。言い表される言葉は誰かを経由しながら広がっていく言語活動の一部であり語り手としての私の外にある。したがって、語り手とは言葉の所有者としてその意思や意図によって意味を決定できる存在ではなく、「言語活動が限りなく溢れ出てくるような非存在である」ということです。そして言語は語り手の思うままになるような道具ではなく主体を経由点としながらもその意思をすりぬけこの世界を巡りゆくものであるわけです。

    哲学カフェにひるがえってみても私の言葉が主体の支配を離れ、その空間に広がっていく光景によく出会います。私が言い表した私の考えが、言葉となり場に投げかけられた途端に私の意図しない意味の広がりを持ち始め、他の人々を経由しながら自分にも思いもよらなかった応答や追求に出くわす。それにより私自身が私の言葉に困惑させられ、揺れ動かされ、時に導かれていくのです。言語の存在という言い回しが暗示しているのは、主体としての自立性、一貫性を求め続ける「私」を当惑させるような鬱陶しいまでの言語の存在感です。言語活動は私が主体である瞬間であるけれど、同時に私が脱主体化する瞬間でもある。哲学カフェでの聞く、問う、応えるという言語活動を通して私は「このように思考する私」から「このような思考ではない私」へと出会い直されているのです。

    フーコーは歴史的存在論という方法で主体としての私を批判しています。歴史的存在論とは歴史的資料を用いることで普遍性と思われている規範や命題、ものの考え方がエピステーメと呼ばれるその時代独自の知の働き方によって、構造的に規定されていることを示すものです。したがってフーコーにとって普遍性とはあくまでその時代のエピステーメに属するという意味で歴史的局在的なフィクションでしかありません。言いかえると同じ命題であっても異なる時代の異なるエピステーメにおいては普遍性は成立しないということですね。

    フーコーの歴史的存在論は主体的である私たちが言うこと、考えること、行うことを批判することです。それは何らかの普遍性としての形式的構造を確保させず、私たちが今のような私たちでなかったかもしれない可能性を示すということになります。

    この可能性を哲学カフェでの言語活動においても同様に見てとることが出来ます。対話という多声的な営みが、私のこの言葉、この思考の形式的普遍性を局在化させます。私の思考が言葉になり他者を経由しながら私を揺れ動かし、困惑させる。どうやら私が考える当たり前がここでは通用しないようだ、と気づくことになります。様々な発話や応答、問いかけが混在していく中で、自分の思考を構造化させている主体としての私が脱普遍化(脱主体化)されていきます。哲学カフェでの対話とは確固とした主体である私が形式的な知的な技術によって真理を獲得する道程などではなく、それはまさにありありとした言語の存在に私が身を委ね、流されながら、このような思考ではない別の仕方としての私に出会い直すという不断な出来事なのです。ニーチェバタイユブランショ歓喜や経験のように主体を主体自身から引き剥がす可能性がそこに開かれています。

    福岡哲学カフェ エクフィロという名前は経験(experience)という言葉を冠したものです。フランス語のexperienceには「新しい知見を五感を通してえること」という意味の他に「実験」の意味も持ちます。フーコーは1979年に行われたインタビューの中で

「経験とは、それをやり遂げたとき、自分自身が変化することになるなにかである」

と述べています。哲学カフェでの発話もまた私という主体においての実験であるわけです。語りという出来事において私の当たり前とされた思考が言葉にして言い表された途端に、意図せず広がり、他者を、そして私自身を当惑させるように。言葉にすることで試している。言葉とそれにより出会い直していく私自身を。