出会い直しとしての言語活動 フーコーと哲学カフェ


こんにちは!運営のハナイです!

 

    先日、ある参加者の方から感想のメールをいただきました。わざわざ丁寧に感想を送って頂けただけでも大変ありがたいことですが、そのメールを読み、僕が抱いている哲学カフェの像が参加された方にもきちんと実感として共有できているんだということがわかってすごく励まされました。

    今回その方に、いただいたメールをブログで公開する許可を得ました。いくつかの論点を持った議論の余地の広い文章ですが、今日はその中から哲学カフェという場で行われている言語活動とはどのようなものであるか、という問題に絞ってミシェル・フーコーの言語活動論と照らしながら考えていきたいと思います。

    先に断っておくと、ここでいう哲学カフェとはさしあたっては「福岡哲学カフェ エクフィロ」のことを指します。というのも哲学カフェは1992年パリで始まったものからして自然発生的な活動であり、誰かが確固たる理論のもとに作り上げたものではありません。全国各地でも様々な哲学カフェが開催されていますがその方法や理念も多様で、ひとくくりにこれが哲学カフェですとかこれが哲学カフェの正解です、と言い切ることはできません。更に言うと「こうでなくてはいけない」というような定まった言説から自由であることこそ哲学カフェの重要な特徴の一つであると僕は思っています。

それでは以下よりいただいたメールの文章を引用します

 

福岡哲学カフェさま

先日はありがとうございました。感想をこちらのアドレスに送らさせていただきます。

わたしは、こうした不特定多数のひとが寄り集まり、なにごとかを話し合うというようなワーク・ショップに、これまで数度参加したことはありましたが、当会のそれは、以前参加したものとは質的にちがうものを覚えました。そのちがいは主に積極的な、快い驚きを含むちがいです。その感想をすこし述べさせていただきます。

先に率直に言うならば、わたしはそうしたワーク・ショップ、ならびに臨床哲学といった背景を含め、どこか違和感がありました。後者についての違和感はだいたい以下のようなものです。
すでにこの近代的な社会のうちで、伝統的なものとの結びつきを欠き、階級といった属性からも自由な「大衆」であるわたしたちが、自らの生活を省みて、どのような特定の知との結びつきもなく何かを問いことが無前提で出来るのだという、とするような言説は、むしろ学問の形式的な手続きや、その手続きによって伝承されてきた、思考の歴史を損なってしまうのではないか、という危惧が、おぼろげながらにわたしにはありました。あるいは、それらすべてをチャラにしてしまってもいいのだ、とアナウンスすることで、結果的にそれはあまりにも近代的なセルフ・マネジメントを助長する結果になりはしまいか、との危惧がありました。
(これはむずかしいはなしで、その反対が真であるわけではなく、もちろん専門的な教育を受けられるような時間や機会や資本に恵まれたひとだけが、そうした語りを許されるというのは消極的な帰結にしてはかなり極端です、また、このわたしの認識は前提として不正確なものだと思われます)
 
前者への判断は、それよりももっと個人的なものですが、後者の判断とも結びついています。
わたしの今までに参加してきたワークショップでは、その場での語りが、そのまま「承認による密な結びつき」と一緒になってしまっているような感覚を覚えることがありました。そうした承認を得ること、それ自体が目的となってしまうようなことに、わたしは恐れを感じていたので、一時のあいだそうした場所には参加してきませんでした。

そうしたなかで、今回の哲学カフェに参加させていただいたのですが、何よりも面白く感じたのは、「途中から誰が話しているのかがよく分からず、宙に言葉があちらこちらへと漂っている」ような印象を受けたことです。それは、あたかもたくさんのひとが、それぞれにひとりごとを言い、そうして発された言葉の端が、また誰かの言葉に影響を与えるようなもの、いわば「わたし(たち)が言葉を話す」のではなく「言葉がわたし(たち)を媒介として行き交っている」というようなものです。
また、主題に対して肯定的に一致せず、なにか曖昧な言葉の端にすこしのあいだだけ身を浸し、結果的にそれが各人の生を触発する、当会はそんな場であるようにも思われ、そこに快い驚きがありました。
そして、あのような場それ自体が、「価値観の異なるもの同士の共生」、つまり共同性をいかにして可能かについての、一つの形になっているように思われました。わたし自身の関心に引き寄せるとダイアローグ(多声的な語らい)の持つ脱主体化作用が、各々に対していかなる働きを持つのか、またはその倫理的な価値は、そのほかの言語活動に比べて、どこに存じているのか、について考えるための最良の経験を得られたような気がします。

 貴重な体験をありがとうございました。これからは忙しくなるやもしれないので、参加できるかどうかは分かりませんが、また参加した際は、よろしくおねがい申し上げます。


以上です。改めてありがとうございました。

 

今回特筆したいのは

「途中から誰が話しているのかがよく分からず、宙に言葉があちらこちらへと漂っている」

「わたし(たち)が言葉を話す」のではなく「言葉がわたし(たち)を媒介として行き交っている」

 という部分です。僕自身同じ感覚になった経験が幾度となくありますし、大分県で開催されているBundoku哲学カフェ代表の志水氏も以前、自身の哲学カフェでの経験を振り返り

「その人の背景みたいなものが後ろに退いて、言葉だけが浮き上がっていくような感覚を対話中に感じました。誰が言ったかというのは後退し、思索だけが紡がれていくみたいな。」

 と語っていました。

 

話した言葉が語り手から離れていくということ、言葉が浮かび上がり行き交っていくとはどういうことなのでしょう?そしてなぜ哲学カフェでの対話の中でそういった経験をすることができるのでしょう。

 

この問いに答えるためにフランスの哲学者ミシェル・フーコーが同じくフランスの思想家モーリス・ブランショについて論じた初期の評論「外の思考」において説明した「言語の存在(etre du langage)」という概念をもとに考えていこうと思います。

 

フーコーは外の思考においてこのように説明しています。

「言語は、一つ一つの単語においては、それらの単語の意味に染み付いた意味内容に方向づけられている。しかし、言語の存在そのものにおいては、また言語がその存在に密着している限りにおいては、言語は、誰にも方向づけられていないという意味で、純粋な期待の内部でのみ展開していく」

    私たちは言葉を用いるとき、自分の意思や意図によって言葉を選んでいますが、私たちが「私はこれこれと思う」と言った瞬間にその言葉の中の「私」は語り手としての生身の私から離れ、意味世界に捉われた、誰かが自由に解釈し勝手に利用するものに変わってしまう。つまり私が話した言葉は話された瞬間に私から離脱し、私の意思や意図といった語り手の支配から逃れ「純粋な期待」によって展開されていく。言い表される言葉は誰かを経由しながら広がっていく言語活動の一部であり語り手としての私の外にある。したがって、語り手とは言葉の所有者としてその意思や意図によって意味を決定できる存在ではなく、「言語活動が限りなく溢れ出てくるような非存在である」ということです。そして言語は語り手の思うままになるような道具ではなく主体を経由点としながらもその意思をすりぬけこの世界を巡りゆくものであるわけです。

    哲学カフェにひるがえってみても私の言葉が主体の支配を離れ、その空間に広がっていく光景によく出会います。私が言い表した私の考えが、言葉となり場に投げかけられた途端に私の意図しない意味の広がりを持ち始め、他の人々を経由しながら自分にも思いもよらなかった応答や追求に出くわす。それにより私自身が私の言葉に困惑させられ、揺れ動かされ、時に導かれていくのです。言語の存在という言い回しが暗示しているのは、主体としての自立性、一貫性を求め続ける「私」を当惑させるような鬱陶しいまでの言語の存在感です。言語活動は私が主体である瞬間であるけれど、同時に私が脱主体化する瞬間でもある。哲学カフェでの聞く、問う、応えるという言語活動を通して私は「このように思考する私」から「このような思考ではない私」へと出会い直されているのです。

    フーコーは歴史的存在論という方法で主体としての私を批判しています。歴史的存在論とは歴史的資料を用いることで普遍性と思われている規範や命題、ものの考え方がエピステーメと呼ばれるその時代独自の知の働き方によって、構造的に規定されていることを示すものです。したがってフーコーにとって普遍性とはあくまでその時代のエピステーメに属するという意味で歴史的局在的なフィクションでしかありません。言いかえると同じ命題であっても異なる時代の異なるエピステーメにおいては普遍性は成立しないということですね。

    フーコーの歴史的存在論は主体的である私たちが言うこと、考えること、行うことを批判することです。それは何らかの普遍性としての形式的構造を確保させず、私たちが今のような私たちでなかったかもしれない可能性を示すということになります。

    この可能性を哲学カフェでの言語活動においても同様に見てとることが出来ます。対話という多声的な営みが、私のこの言葉、この思考の形式的普遍性を局在化させます。私の思考が言葉になり他者を経由しながら私を揺れ動かし、困惑させる。どうやら私が考える当たり前がここでは通用しないようだ、と気づくことになります。様々な発話や応答、問いかけが混在していく中で、自分の思考を構造化させている主体としての私が脱普遍化(脱主体化)されていきます。哲学カフェでの対話とは確固とした主体である私が形式的な知的な技術によって真理を獲得する道程などではなく、それはまさにありありとした言語の存在に私が身を委ね、流されながら、このような思考ではない別の仕方としての私に出会い直すという不断な出来事なのです。ニーチェバタイユブランショ歓喜や経験のように主体を主体自身から引き剥がす可能性がそこに開かれています。

    福岡哲学カフェ エクフィロという名前は経験(experience)という言葉を冠したものです。フランス語のexperienceには「新しい知見を五感を通してえること」という意味の他に「実験」の意味も持ちます。フーコーは1979年に行われたインタビューの中で

「経験とは、それをやり遂げたとき、自分自身が変化することになるなにかである」

と述べています。哲学カフェでの発話もまた私という主体においての実験であるわけです。語りという出来事において私の当たり前とされた思考が言葉にして言い表された途端に、意図せず広がり、他者を、そして私自身を当惑させるように。言葉にすることで試している。言葉とそれにより出会い直していく私自身を。